【寄稿】相談援助職に就くことを’’あきらめた’’話。あるいは、社会的マイノリティの原体験とキャリアについて -里芋はじめ –

「病気や障害のある当事者は、相談援助職に就く適性があるか。」

もしあなたが、このような問いを投げかけられたとしたら何と答えるだろうか。相談援助職の適性としては一般的に「他者に関心が持てる」ことや「傾聴力や忍耐力がある」ことなどが挙げられている。前提として差別や偏見はあってはならない話だが、この問いは当事者と非当事者によって、また人生経験で回答が変わってきそうである。片目失明で慢性疾患を抱える31歳の僕は、かつて行政の相談援助職を志望していたが、現在はその職に就いていない。厳密にいうと就けなかった。しかし、それで良かったと率直に思う。その理由を綴ってみたい。少し長くなるが、お付き合いいただければ幸いである。

●「聞き上手」と褒められ、夢を持った

僕は生後すぐに両眼先天性緑内障の診断を受けた。手術により右目の視力は回復したが、左眼の視力はほとんどなく、斜視や眼瞼下垂といった見た目の症状もあった。さらに8歳の頃には不整脈も発覚して、幾度か大学病院に入院した。中学生になるまで、体育を見学する学校生活を過ごした。

子ども社会は、時に残酷な言葉が飛び交う。幸い大きないじめに遭うことはなかった。クラスメイトは慕ってくれたし、性格も明るい方だったと思う。けれど、「病気や見た目のことで傷つけられてもおかしくない。」と内心は怯えていたし、相手の言動に敏感な子どもだった。だから、同じように傷つきやすい立場にいる人が、いつも気になっていた。

それが、他者と関わる上で良かった面もある。思春期の頃から、よく人から相談を受けるようになった。友人から「聞き上手だね。」と褒めてもらうことも多く、嬉しかった。他人よりも少し聞くことが出来るのは、自分が病気や障害がある当事者だからだと思った。高校時代、身近な友達や後輩が不登校や摂食障害になったことで、彼らのような境遇の人を手助けできる仕事に就きたいと思いはじめた。

大学進学後は、発達障害のある児童と関わるボランティアに参加したり、児童相談所で、虐待を受けた子どもの遊び相手となるメンタルフレンド活動を始めた。特に2年間続けたメンタルフレンド活動では、担当心理士さんから、子どもを取り巻く複雑な家庭環境を教えてもらった。その影響もあり、児童相談所の職員(児童福祉司)になることが目標になった。けれど、僕自身も困難を抱える社会的マイノリティであることに変わりはなかった。


●不合格で突きつけられる当事者性


児童福祉司になるため、公務員試験の勉強を始めたものの、きちんと自分が働けるのか不安は大きかった。大学3年の頃に網膜剥離を発症し、緑内障も悪化していたからだ。左眼も完全に失明して、薬の副作用による悪心で苦しんだ。そんな不安定な状態で臨んだ初めての公務員試験は、二次面接で不合格となった。自分なりに努力した結果としての不合格は、ショックだった。

人から認められ、糧としてきた聞き上手という「強み」。それを打ち砕かれたような気がした。とはいえ、離れて暮らす両親に心配はかけられない。気を取り直し、民間での就職活動を始めてみた。しかし、上手くいかなかった。僕は左目が失明しているといっても、右目の視力がある程度残っている。そのため現行の基準では障害認定を受けられない。だから面接官から「障害者手帳はとれないですか?」と質問された時は、世間のリアルな認識に困惑した。同時に、自分の当事者性の複雑さを社会に理解してもらう困難さを感じた。

その後は、社会福祉士の資格を取りつつ、公務員試験をリベンジすることになった。また、福祉の現場をもっと知るために、障害グループホームでのアルバイトや、路上生活者と関わるNPOでボランティアも始めた。公務員試験対策も、面接練習を充分に重ね、太鼓判を押された上で臨んだ。だけど、やはり面接で不合格だった。

社会福祉協議会の非常勤職員として、一応の就職が決まった後も、児童福祉司への思いが捨てきれず、公務員試験の受験を続けた。けれど不合格は続いた。面接で落ちる理由が、単に伝える努力が足りなかったのであれば納得がいくが、慢性疾患を抱えた不安定な身体という、マイノリティ属性によるものか、あまり考えたくなかった。

●紆余曲折の中で広がった視野


社会福祉協議会の非常勤職員は、雇用も不安定で生活もギリギリだ。けれど、3年続いたこの期間で、大きく視野が広がった。当初僕は一対一のケースワークに拘っていたけれど、自治会や町会に関われたことで、地域のネットワークを構築する意義が分かった。既存の制度・機関の機能や住民同士による見守り支援の手法を学べた。ワークショップの企画や、ファシリテーションの経験で出来ることが増えた。

また時間に余裕があったので、社会課題の解決を目指すNPOの様々なイベントに、よく足を運んだ。支援者だけでなく、アクティビスト、社会起業家など、立場によるアプローチの違いがあることを知った。SCAの横山北斗さんと初めてお会いしたのもその頃だ。ソーシャルアクションが起きにくい、福祉業界の構造的な課題に目を向ける姿に刺激を受け、ソーシャルワークの奥深さを学んだ。

時を同じくして、病気の進行によって閉じきれなくなった瞼を改善するため、何度か手術も受けた。それがきっかけで患者会NPOにも入会した。似た症状を持つ、仲間と出会った。仲間の姿を通して、病気や障害を持った当事者自身が広く社会に発信することの大切さも教えてもらった。

出来ることが増え、知見が広がったことで、公務員試験を受けようか迷いはじめた。周知のとおり、児童相談所での仕事は激務。体力もいるし、ストレス耐性がないと続けるのは困難だ。(精神疾患による休職率は、教員の4倍とも言われる。)だから、本当の意味で自分には適性がないのかもしれないと考えるようになった。


●「あきらめる」本当の意味を知る

そんな時、尊敬する人がこんな言葉を教えてくれた。「あきらめるとは、明らかに見ることだ」と。ああ、そうか。僕は自分の障害を、本当の意味で認めきれてなかったのだと納得した。物事の本質を見定めることは、つまり自分にとって大切なものを見極めること。「僕には、児童福祉司の適性がない。」と口にしてみたら、奥底に眠っていた拘りが消えて、気持ちが楽になった。もしかすると、面接官に僕の聞き上手という「長所」を評価してもらいたかっただけかもしれない。僕は児童相談所で働ける適性はないけれど、僕を「活かせる」場所はきっと他にもたくさんあるはずだ。

結局4年間挑み続けた公務員試験は、5年目、受験しなかった。自分のできることと、病状をありのまま話そうと決め、相談援助職以外で就活を始めた。すると、かつてあれだけ面接で苦労したのに、トントン拍子で内定が決まった。正規採用してくれたのは、福祉専門職を対象に研修事務を主に行う法人だった。

今現在、相談援助の仕事はしていない。でも日々、福祉のプロと関わり、好奇心が満たされるし、通院や、体調を考慮して仕事ができる環境はありがたいなと思う。支援者の苦労は分からないけれど、リスペクトの気持ちは10年前と変わっていない。プライベートでも、NPOで広がった人脈から、ゆるく人と人とを繋いだり、情報提供したり、プロジェクトを応援したりしている。それはボランティアの域を出ないものだけれど、社協で働けたからこそ、支援者を支えることの社会的な価値もよく分かる。悪戦苦闘した日々は、かけがえのない財産になった。

●当事者性がたとえ仕事に活かされなくても大丈夫

さて、ここまで自身の過去を振り返ってきたが、冒頭の「病気や障害のある当事者は、相談援助職に就く適性があるか。」という問いに対して、僕は「適性がないから辞めた方がいい」と言いたいわけではない。そもそも、他者によって適性の有無を判断されるべき話でも、有無の二元論で片付けられる話でもないと思っている。このテーマを書くきっかけになったのは、株式会社LITALICO 社長室 チーフエディター / soar理事の鈴木悠平さんの、Twitterでの下記の連続ツイートを読んだからだ。

―引用開始―

障害・疾患etc.なんらかの社会的マイノリティ性が生育歴の中にある人が、「自分の○○な経験を生かした仕事をしたい」と僕に語りかけるとき、彼/彼女が生きてきた歴史に敬意を払いつつも、少し慎重な受け答えをする。原体験と仕事の間には、本人が思うより大きなジャンプがあることが多いからだ。

(中略)

「自分の〇〇な経験を生かした仕事」として、「当事者向けサービス/コンテンツ」をつくりたいと語る人は多い。しかしそれは、障害や疾患を自身と同じくする大勢の人が直面する「共通の課題」を捉え、それを一定の収益性・持続性を持って展開可能な「事業」へ昇華するという挑戦であり、相当に難しい

(中略)

思いだけが強すぎたり、やりたいことと現状のギャップにもどかしい気持ちを抱いている人の相談も受けてきた。最後はご本人の選択なのだけど…一度「当事者性」から距離を置いて、日々の就労生活の中で出来ることを積み上げていくことは決して遠回りではないと伝えたい。歩いていくと景色も変わるから

–引用終了—

ひとりのマイノリティ当事者として、鈴木さんに相談する彼/彼女の気持ちはよく分かる。自分にしか分からない原体験は、どこかで昇華されて欲しいし、それがビジネスに通じた道であるならば、その運命を引き受けた価値も感じやすいからだ。実際に、当事者性を価値あるサービスとして、社会に還元している起業家を見ていると、勇気をもらう。

とはいえ、原体験と仕事の距離を埋めるのは難しい。マイノリティにも理想的なキャリアが築けるかと言われれば、当人の努力だけではどうにもならないことや、周囲の環境に恵まれていなければ、成し得ないこともあるだろう。加えて、SNSが発展した今の時代は特に、障害の有無に関わらず「何者かになりたい」と強く駆り立てる、社会の風潮も実感する。それが鈴木さんの言う、「原体験と仕事とのジャンプ」を見えなくさせているかもしれない。

実は僕は今、希少難病の疑いがあり、検査を進めている。障害認定を受けないグレーゾーンにいるけれど、今後病気の進行によって右目の視野・視力が低下すれば、働き方が変わる可能性もある。当事者性は姿や形を変えて影のように傍に佇んでいるが、想定させるリスクに怯えていてもしかたがない。

それでも本稿を書こうと思った理由は、自身の経験を通して、病気や障害を理由に、当初抱いた仕事に就けなくても良いことを伝えたかったからだ。「だからこそできる」と思っていた自身の当事者性に由来する側面が、仕事として活かされないと知った時、それはきっと辛くて悲しい。現実問題としてあきらめなければならない時が来るかもしれない。でも、と思う。それは決して、ギブアップでも敗北でもない。それまで見えなかった自分を知り、価値を転換する好機だ。そうやって、自分で自分を励ましてあげて欲しい。大丈夫。長い目で見れば、無念も涙も、いつかきっと花になるさ。

あとがき

本稿は当初、SCAのメールマガジンで本年1月に掲載を予定しており、想定読者はソーシャルワーカーやそれを目指している人だった。しかし横山さんからは「誰しもが少なくとも何らかの当事者である」とのお話をいただき、HPで掲載していただけることになった。横山さんに深く感謝するとともに、コロナ禍により、時に無力感を抱えながらも連日最前線で奮闘する同志に、この場を借りてエールを送りたい。

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寄稿者プロフィール
里芋はじめ Twitter:@944ikuzak

社会福祉士。学生時代から路上生活者、不登校児童、非行少年などを対象に様々なボランティアを続ける。現在は福祉専門職を支援する法人に勤務する傍ら、片目失明・ユニークフェイス当事者としても活動を行っている。
所属:特定非営利活動法人眼瞼下垂の会、つながるねっと