代表・横山へのインタビュー 前編(聴き手:柴原)

NPO法人化に伴い、代表横山にインタビューを行いました。
*インタビュアー:柴原(SCA広報)

――いまさら改まって聞くのもなんですが存じ上げないことも多いので、もともとのお仕事について教えてください。

横山
「大学を卒業してから2ヶ所の勤務先にソーシャルワーカーとして勤めました。主な仕事の内容としては、病院の外来や入院している患者さんやそのご家族が、病気になって生じる社会的な困り事、たとえば入院費の心配とか若くて働いているひとの生活費の心配があるというようなお金の相談とか、病気を抱えながら職場復帰するときどうしようかとか、いま多いのは高齢の方が病気で入院して治療して病気は良くなったけれども、もともと足腰がしっかりしていたひとが、歩くのがおぼつかなくなってしまったりとか、独りで歩けなくなってしまったりとか、中には病気自体は治ったけれども認知症の症状がすすんでしまってひとりで買い物できるか心配だったり食事をひとりで作れるかどうかとか、そういうお年寄りの病気が治ったあとに生じてくる介護などの問題で入院前と同じ生活ができるか心配なこととか、相談に乗ったりしていました。」

――相談は患者さんやご家族からということが多いようなイメージも有りますが、医師や看護師からのオーダーで動いたりすることもけっこうあるんですか?

横山
「そうですね、両方同じくらいありました。患者さんのご家族から「お金の心配があるんだけど」ですとか、「そろそろ退院できると言われたが、足腰が弱ったり認知症がすすんでしまって在宅生活が心配だ」と直接相談されることもありますし、医師や看護師など患者さんの治療にかかわるスタッフから、病気は良くなったけれども入院前と状況が変わってしまって退院にあたって生活の手伝いとか生活を整えて帰ってもらう必要がありそうだからそのあたりの準備で関わってほしいという相談を受けて、そこから患者さんやご家族にお会いするというパターンたくさんもあります。」

――相談内容としては、やはり退院時の調整というのが多い。

横山
「そうですね。在宅で安全に生活するために例えば足腰弱ってしまた場合には家に手すりを設置したほうが良さそうだとか、ひとりでの買い物が心配だが家族も手伝うことが難しそうであれば、介護保険制度を利用してホームヘルパーさんに掃除や買い物を手伝ってもらえるよう調整するというような安心して安全に自宅へ退院するためのお手伝いというのがひとつと。また自宅での生活が難しそうであれば入所できる介護施設や長期間入院できる病院を探したりという自宅以外へのパターンもあります。退院にからむ相談や支援がだいたい6~7割くらいで、そのほかに入院中の費用の相談や外来の患者さんの相談など退院にからまないケースというのもけっこうあります。」

――お仕事の中では、どういった職種のひとと関わっていくことが多いですか?

横山
「病院内では医師や看護師はもちろんリハビリのスタッフとか、あとは服薬の管理が難しい場合の指導・調整などで薬剤師さんにかかわってもらったり、退院してからの食事に関する指導や提案などで栄養士に説明してもらうこともあります。病院外では、居宅のケアマネや包括職員、介護施設の相談員、行政なら生活保護のケースワーカーや高齢者支援・障害者支援の担当課の職員ともよくやりとりをします。」

――ソーシャルワーカーの仕事につこうと思ったきっかけを聞かせていただけますか。

横山
「はじめ大学に進学した時はソーシャルワーカーという仕事につこうということは全然思っていなくて、工学部に進学しました」

――そうなんですよね。

横山
「宇宙にロケット飛ばしたかったのです。子どもの頃から。」

――それもすごいですよね(笑)。

横山
「名前(「北斗(ホクト)」)に影響されたんでしょうね(笑)」

――なるほど!

横山
「ですが、私はもともと15歳に白血病というか血液の慢性疾患で入院し、骨髄バンクを通してドナーの方から骨髄の提供を受け、命を救っていただいた、という経験があります。」

――えっ、そうだったんですか?

横山
「はい。そういう経験もあって、進学で地元から神奈川に出てきて、とある場所で同じ病気をしたひとの自助グループに参加する機会がありました。そこにいらっしゃったのは、同じような病気をした人ではありますが、闘病きっかけに不登校になったり、就職がうまくいかず、という方も多く、反面、私は大病はしましたが、大学に進学することができて、不自由なく生活もできていたので、ふと、このままでよいのだろうか、と思ったのです。自助グループに参加した日の帰り道、ふと、「自分は運が良かったんだな」と。」

――「運が良かった」というのは?

横山
「大変な経験はしたけれども、進学もできましたし、それなりに暮らせていた自分は運が良かったんだな、と思ったんです。」

――自助グループに参加している他のひとたちとかかわってみて、自分の境遇は幸運だったと。

横山
「はい。でもその日の夜に「運が良かった」と思ってしまった自分に対して、ものすごい嫌悪感を覚えました。今でもそのことははっきりと覚えています。腹の底が焼けるような感じがしたことも、鮮やかに思い出すことができます。そして、そのときに思ったのです。「運が良かった悪かったで済まされること」というのを、今後の人生の中でできるのであれば極力少なくしていきたい、と。そういう仕事が社会に対してできたらと思うに至ったのですが、当時19歳でしたから、実際にそういうことができるようになるまでは、まだまだ時間がかかるのですが、世の中に数多ある「運が良かった悪かったで済まされること」というのを、今後の人生の中でできるのであれば極力少なくしていきたい」ということが、その日以降の、私が生きていく上での個人的なミッションになりました。

その後、工学部を辞め、2年生からの編入という形で福祉系の大学に入り直し、そこで3年間学んで福祉の仕事につきました。編入学当初はアメリカやイギリスにある任用資格である「チャイルド・ライフ・スペシャリスト」といういわゆる病棟保育士になりたいと思っていました。ですが、まずは日本の大学は出ておいたほうがいいかなと思い、お金貯めてゆくゆくは外国に留学しようかなと、そのときは思っていたのです。
福祉系大学へ編入後は、県立のこども病院と協働で、入院児のきょうだいのお子さんを学生で預かり遊び相手をするというボランティア団体を立ち上げたりしました(当時多くの小児科病棟では、感染症リスクを理由にきょうだいであっても、幼い子供の入棟を禁止していました。それゆえ、お見舞いに来てもきょうだいの子供だけ病棟の外でお留守番、という状況が多々見られたのです。そのことを知り、学生のマンパワーを活用しできることはないかと思案した結果、このような活動が生まれました。現在発足10年目を迎えたところです)


ソーシャルワーカーになろうと思ったいちばん大きなきっかけは実習での経験でした。
大学4年生の時に、大学病院で2週間の実習があったのですが、当時20年くらいキャリアのあるワーカーさんにつきっきりで実習させてもらうという貴重な経験をさせていただき、面接やカンファレンス、時間が許せば残業の時間まで可能な限りそばについて一挙手一投足を見せてもらうという実習をしました。

その実習の時に、私がこの仕事につこうと決めるに至った、ある高齢のご夫婦に出会ったのです。

80代くらいのご夫婦で、奥さんの方が骨折で入院し、入院前のように歩けないからこれからどうしようと相談室に旦那さんが直接相談に訪ねてきたというケースでした。私は経過の全てにずっとつかせてもらうことができ、終結までを一緒に過ごさせていただきました。
旦那さんは最初に相談室に訪ねてきたときは、とてもうろたえていて、奥さんは画家だったらしいんですけど、その元気だった妻が転んで骨折してしまい、医師からは入院前のように歩けるかどうかわからないと言われ、いろいろ準備しないといけないんだけどどうしたらいいかわからなくて…と、うろたえた感じだったのです。

私ははじめ「すごく困ってるんだなぁ」くらいしか思えなかったんですけど、実際に何回かワーカーとご主人が面接を続け、奥さんがリハビリをしている場面を旦那さんといっしょに見て、歩き具合いとかを確かめながら面接を重ねていったんです。

ソーシャルワーカーが関わっていく中で、ご主人自身はだんだん落ち着きを取り戻していかれ、実際に奥さんの状況を自分で把握された上で、妻はベッドを借りたほうがいいだろうかとか、手すりをつけたほうがいいだろうかとか、じゃあどうしたらそれが使えるかとか、具体的にきちんと口に出して、どうすればいいかということをソーシャルワーカーといっしょに確認しながら進めていかれるようになっていったんですね。

――それはいい場面に出会いましたね。

横山
「そうですね。これはたぶん今思えば、旦那さんがもともとしっかりした方でそういう対処能力があったという理解ももちろんできるのですが、ソーシャルワーカーがきちんと関わっていく中で「いっしょに奥さんのリハビリを見に行きましょうか」、「不明瞭な部分については主治医から説明してもらうようにセッティングしましょう」と提案し、旦那さん自身がきちんと奥さんと自分で何ができるか、何を補わなければいけないか、そういうことを旦那さん自身が考える上での材料とか準備を側面からサポートするような、そういう関わりをされたのです。

そういう一連の過程をずっとそばで見ていて、最初会った時にとても慌てふためいていた旦那さんがだんだん落ち着かれ、ご自身で主体的にこれが必要だと思うと口にされ行動を起こすという、つまりは、舵取りをしていくような変化に立ち会う中で、まあ2週間ほど間だったのですけど、私はそんな旦那さんの姿をみて、「人ってほんとにすごいんだな」って単純に思ったのんです。

はじめは「このおじいちゃん大丈夫かな???」とかって思ってたようなひとが、ちゃんとご自身で「自分の妻のことだから!」と舵取りをしていくようになっていって。

そういう、いろんなクリティカル(危機的)なことがあったとしても、そこからまた力強く一歩を踏み出すという場面に立ち会える、かつそこに寄与できるという可能性がこの仕事にはあるんだなって思い、そういうところにすごく惹かれたんです。

「ひとは変われる」っていうのが個人的な信条でもありましたので、個人的な信条にもダイレクトに訴えかける部分があり、いろんなたいへんなことがあるけれども、人は強いし、変われるんだということを信じることができた、信じさせてもらった、そんな経験を、そのご夫妻とソーシャルワーカーの関わりの中でさせてもらったのです。

――とてもいい経験じゃないですか!だってもしそのおじいさんが、実習中にあんまり落ち着きを取り戻さなかったりしたら、そういう風に思えなかったかもしれないですもんね。それは、やはりワーカーさんの対応自体も良かったんでしょうか。

横山
「たぶん旦那さんがもともと持っていらした「生きる力」と、ワーカーさんがそれを見極めた上で、そういう側面的な――ときには自分で物事を進めていくことが難しい状況下にある人だという評価があれば、舵取りをいっしょに半分くらい持ってガチっと進めていくというケースワークも必要だと思うのですが、あえてそれをしなかったのは、ワーカーさんの中にそういう評価がきちんとあって、旦那さんがしっかり舵取りできるように側面からサポートするっていうアセスメントをちゃんとしてプランニングしていたんじゃないかなと思うんですよね。」
――おおー、なるほど。

横山
「ですが、それは後付けでして、私自身が経験を積んだから振り返って思えることなのだと思うのですが。」

――そうやって振り返ると、それはソーシャルワーカーになるためのかなり大きなイベントだったわけですね。

横山
「それで決めたといっても過言ではないですね。」

――その実習に入る前は、まだ保育士の方向で考えていたんですよね。

横山
「ええ。どうしようかなとか思ってて、就職活動も何もしてなかったんですよね。」

――4年生ですよね?

横山
「4年生の7月くらいです(笑)」

――みんな公務員とか受けちゃってる時期ですね。

横山
「まあ病院の求人とかもまだそれほど出てなくて。」

――まあ福祉の業界は全体的に求人遅いですしねぇ。

横山
「けっこう甘く見てたんです(笑)」

――でもそれで、ソーシャルワーカーをやろうと思って、しかも卒業してすぐにそのやりたい仕事に実際に就けちゃったんですよね。

横山
「7月に実習終わって、それから就活はじめたんですけど、うちの大学、当時私たちがその学科の初めての卒業生で、業界に先輩とかもいなくて就活も一個一個インターネットで調べたりしていました。

――ぜんぶ手探りでたいへんだったんですね。

横山
「そもそもその頃は医療機関のソーシャルワーカーの新卒採用は少なくて、今でこそ診療報酬上で社会福祉士の配置に点数化されて雇用も増えましたけど、経験者採用が多かったと記憶しています。それで卒業式の前日に、やっと就職決まったんですよ。」

――めちゃめちゃギリギリ!でもそれが決まったときのお気持ちはいかがでしたか?

横山
「うれしかったですね。あと『やっと終わった』と思いました(笑)」

――安堵感、ですよね(笑)それで、やっと卒業ギリギリで就職が決まって勤めはじめて、実際に自分がソーシャルワーカーとして直接ケースに関わってみて、実習のときのイメージと比較してのギャップとか、その辺はどんな風に感じましたか?

横山
「なんか、あの…全然…こう自分が思い描いていたところに1ミリも到達できませんでした」

――それはどのくらいの間?

横山
「2年目くらいまでですかね、もう毎日辞めたかったです」

――大学の実習のときに出会った理想型になかなか近づけなくて。

横山
「ええ、そのひとの変化にいっしょに立ち会って、力強い一歩をサポートするっていうイメージに全然、1ミリも近づけない感じでした…」

――その病院には、ソーシャルワーカーも何名かいたんですよね?

横山
「先輩と自分を含めて3名いました。」

――でもなかなかケースをうまく導けなかったことが多かったと。

横山
「その病院には急性期と療養期の病棟があったのですが、私は療養病棟の患者さんだけを担当していたんですね。上司が『ちゃんとひとと向き合う時間をゆっくり取れるから』という理由でそういう配置にしてくださって。でもそこで、なんというか迷路に迷い込みました…。

大学で学んできていて『患者さんやその家族、いわゆるクライエントは困っていて、相談者が相談室を訪ねてきて、コンコン(と相談室のドアをノックして)、で、そこからクライエントと出会う』というイメージを持っていたのですけど、療養病棟の患者さんっていうのはすでに病気やケガをした後、退院後に施設に行くための待ち時間ですとか、家に帰るまでのリハビリ目的で療養病棟に来たりしていたので、患者さんの方からあれが困ったとかそういう話は無く、こっちから話を聞いても「もうリハビリして帰るだけだからだいじょうぶだよ」とかそういう状態で、それ以上なかなか話が聞けなかったんです。
いま思えば、『大丈夫だよ』という言葉の中で患者さんの持つイメージとか、例えばどういう状態になったら『大丈夫』だと思っているのかとか、そういう接し方などもあったんでしょうけど、当時は『大丈夫』って言われちゃうと『ああそうか、大丈夫なんだ』って感じでシュンとしちゃうわけですよね(笑)。そこで自分の関わる意味ってなんだろうとかすごく考えちゃって。」

――それでもうずっと辞めたかったけど、辞めたくなくなったきっかけっていうのがどこかであったんですか?

横山
「1年目の冬くらいに出会った80代くらいの二人姉妹の方が、私を辞めさせないでくれた方々でした。
妹さんが骨折して入院し、お姉さんがキーパーソンというようなケースで、その妹さんが骨折後のリハビリ目的で療養病棟にやってきてお会いしました。お姉さんは、まあ簡単にラベルを貼ってしますと、『決められないひと』だったんですね。で、何度か面接を繰り返しても、自分もトシだし施設とかに入ってもらったほうがいいのかなと思いつつも、でも長くいっしょに二人で暮らしてきたから本人も家に帰りたいと思っているだろうし家の方がいいのかしらとか、実際に施設を見学してみては気に入らないところが…とか気になるところが…とかいう感じで、もうなかなか決められない。そういうお姉さんの話を聞いて、私ももちろん決められないし、一緒にどうしようね、みたいな感じでした(笑)」

――いっしょに悩んでいたわけですね。

横山
「当時は、(時間的に)許されないくらい何回も話して(笑)。妹さんご本人にも話を聞いてみると、軽い認知症はあったのですけど『家に帰りたいわね…』というようなことをぼそぼそとおっしゃってて、それで5回目くらいの面談ですかね、そのときもお姉さんはやっぱり決められない様子で、『本人も最近調子がいいとは言ってるんですよね…』『ちょっと私も腰が痛くて…』というようなことを言っていました。

私は、『そうなのですね』と話を聞いてて、そのときふと『これは私と話をしてても一生決まらないな』と思いました。
そもそもそのときの事実として、お姉さんがご本人とちゃんと向き合って、『私も自分の体のこともあるし家に返してあげたいけどこれが心配だ』とかっていう当事者のふたりの間での話ができていなかったようでした。

そして、私もお姉さんに単刀直入に聞かなきゃなと思い、『いままで何度もお話してきて、お姉さんの妹さんを思うお気持ちとかお聞きしましたけど、私と話をしていてもなかなか決められないですよね?ご本人とは退院後どうするとかそういう話をおふたりで直接されましたか?」ってお聞きしたら「していない」と。

『そうしたら、もうおふたりで直接そこをお話しするっていうタイミングじゃないですか』とこちらの考えを伝えました。そして、そのとき、お姉さんがそのとき少し凛とした顔をして『そうですね』って言われたんです。

『確かに私たち家族ふたりのことだから、妹と話をしないことには進まないですよね』と。そのご、しばしの沈黙のあと『分かりました。それじゃ今から妹に私の思い――心配だって思ってるってことなどを、話してこようと思います』と。『でもあなたにお願いがあるのだけれど、いまから妹に話しをしにいくけど、妹は私の前で本心を話さないかもしれないから、妹がどう思ったかっていうことをあなたから聞いてほしい』とお願いされたんですね。で、私も『わかりました』と答えました。

それでその面接は終わりました。

結論としては、お姉さんも自分の気持ちをしっかり話すことができて、妹さんご自身も家に帰りたいということをちゃんと言えて、お姉さんが家に連れて帰りますということに決めてふたりで自宅に退院されました。

このケースにおいて、お姉さんが『自分がこれをやります』と宣言し、そして、『あなたにはこれをしてほしいんだ』という言葉を私に向けてくれたってことを、私の中で『協働作業だ』と位置づけました。

今までずっと堂々めぐりで何かしらひとつアクションが必要というところでなかなか(アクションできず話を進めるのが)難しかったのですが、その中でもお姉さんが腹を決めて妹さんと話をするっていうアクションを起こされました。自分で舵取りをするから、この部分はあなたにやってほしい、補ってほしいっていう意思表示をする『協働』。
それが、私が学生時代に抱いていた、そのひとの主体的な舵取りを支えるっていうイメージに、少し、シンクロしたんですよね。

それ以降、いろいろなことに気づけるようになり、徐々に辞めたいとかっていう気持ちも薄れていきました。そこから毎年自分の中での個人的な課題はあったのですが、「完全なダメダメからの脱却」はできた気がします。1年目の冬のことでした。」

――まさに「ケースに育てられるソーシャルワーカー」っていう感じで、理想的ですよねー。

横山
「ホントそうですね。感謝してます。今でもしっかりお顔を覚えてますから。」

 

後編に続きます。