【連載】『いち精神障害者、ふらりと見参』VOL1-3』鷺原由佳【ソーシャルワークタイムズ掲載記事】


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「ソーシャルワークタイムズ」にて連載中の由佳さんによる「いち精神障害者、ふらりと見参」の過去記事を掲載いたします。障害当事者団体のDPI日本会議に勤め、精神障害の当事者としてもたれている課題意識やソーシャルアクションについて書いていただいています。最新号を読みたい方はぜひ、ソーシャルワークタイムズ購読をお願いします。


『いち精神障害者、ふらりと見参(1)』

はじめまして。統合失調症歴13年、精神障害当事者の由佳と申します。社会福祉士&精神保健福祉士8年生でもあります。この度、縁あってSCAさんのメルマガに顔を出しました。自己紹介と絡めて、精神障害分野に関するあれこれを書きたいと思います。

私は現在、DPI日本会議(以下、DPI)というNPO法人で働いています。DPIとは、障害者が専門家などから管理.・庇護される「保護の客体」ではなく、自分自身が主張し声を発信する「権利の主体」として活動する運動団体です。
私はここで精神障害の当事者として、主に事務仕事や広報活動、時々講演を行っています。必要な配慮を得て(ここ重要!)、フルタイムで働いています。

私が発病したのは20歳、大学3年生の時でした(あ、年齢ばれるね)。不眠症が悪化し、「殺されるかもしれない」「皆がバカにしている」等の被害妄想(というか、中学生時代のフラッシュバック)に襲われ、一人暮らしのアパートから出られなくなりました。人に勧められて嫌々心療内科を受診したら、光速で精神科への紹介状を書かれました。それから通院・服薬したものの良くならず、結局都内の某精神科病院に入院となりました。入院中の出来事はおいおい書くとして……。

退院したのはいいものの、卒業後は行き場がなく、実家で引きこもる生活が続きました。この頃の経験が、今の活動の動力に繋がっています。「社会の中に居場所がなくて自分の価値をなかなか見いだせない」、そんな精神障害者は少なくないように感じるからです。

しかしながら、精神障害者には社会資源が足りないと指摘される一方、グループホームなどを建設しようとすると「施設コンフリクト」が起きてしまう現状。日本の精神保健福祉は、残念ながら先進諸国と比べて極めて低い水準にあると言わざるを得ません。

社会的入院や病棟転換型居住系施設構想などはその最たるものですね。福祉分野に限らず、一般社会に照らしても、市民の意識は極めて差別的・後進的だと感じています。差別用語が平気で飛び交う場面に出くわし、悔し涙を流したことも多々あります。
だからこそ、私は努めて自分の障害をオープンにしています。だって、障害は別に悪いことでも、劣っていることでも、恥ずることでもないんですもの。今や自分の一部なんです。「私は精神障害者です」と伝えることが、正しい理解への第一歩だと信じて活動しています。

面白いことに、障害をオープンにすると、リアクションが十人十色なんです。憐みのまなざしを向ける人、理解しようと前傾姿勢になる人、無関心な人……。中でも今までで一番印象的だったのは、福祉とは関係の薄い一般ピープルな社会人の友人に障害をオープンにした時のこと。幻聴や妄想が苦しいんだ、と告げたら、「大変そうだけどさぁ。障害だろうが何だろうが、さぎちゃんはさぎちゃんなわけでしょ?」と一言。まさにそうなのよ~!いやぁ、この感性ですよ。こういう人がもっと増えてくれたらなぁ。

けれど、社会はこの友人のような鋭く豊かな感性を持った人ばかりではありません。意識を耕すことが必要です。実りを得るには、種まきが欠かせません。自分の声が、社会を育む一助になるのなら、私は種まき=自分の障害をオープンにすることは、やぶさかでないです。
でもね、私も最初からこんなにオープンではありませんでした。むしろ全然逆でした。なにがどうしてこうなったのか?は、また次回以降にします。今回はこの辺で、あでゅー。

ソーシャルワークタイムズ vol86 2015.9.6


『いち精神障害者、ふらりと見参(2)』

こんにちは。前回は、私が努めて顔も名前もオープンにして精神障害のことを話しているということまでを書きました。今回はそのきっかけの前半について書きたいと思います。主に苦難と挫折の歴史です(と書くと、何かカッコいい)。

引きこもり生活から抜け出したくて、私は、とある精神科病院へ看護助手として就職しました。もちろん、障害のことはクローズでした。当然ながら、必要な配慮は一切得られないまま、汗まみれになって廊下やトイレを掃除し、汚物を処理し、くたくたになって帰ってくる日々。すぐに調子は崩れました。勤務中、頭を締め付けるような幻聴に襲われたのです。それでも、障害を隠したくて、というよりは「隠し事をしている」という負い目のほうが大きくて、言い出せませんでした。周囲からは(そこが精神科病院であったせいもあってか)「どこかおかしい」とは思われていたようですが。

ある日、体力的にも精神的にも限界を悟った私は、覚悟を決めて、ナースステーションでいつも通り優雅にハーブティーを飲んでいた看護師長(この辺の「精神科病院の中に厳然として存在する『笑っちゃうけど笑えない』ヒエラルキー」については、別便で書きます)に、自分の障害を「白状」しました。すると開口一番言われたのは、「嘘つき。冗談じゃないわよ」。……そして始まった、パワーハラスメントの嵐。耐えられるわけもなく、結局「自己都合」で退職に追い込まれました。めちゃくちゃ悔しかったです。

その悔しさをバネにして、その年度の社会福祉士と精神保健福祉士の国家試験にチャレンジしようと決意しました。模試代を稼ぐために日雇いのアルバイトをこなしました。ただでさえ薬の副作用で、疲れやすくなっていたのに、よく8時間も立ち仕事をしたよなぁ、と思います。

学生時代からの親友Cちゃん(一緒に合格!)や家族の支えもあって、2007年、社会福祉士と精神保健福祉士に無事に合格することができました。普段無口な父が、「おめでとう、おめでとう」と勤務先から電話をくれたのを今でも覚えています。

そしてめでたく有資格者になった私ですが、それですべてがうまくいった訳ではありません。千葉県某所の精神障害者を対象とした地域活動支援センターIII型に有償ボランティアとして関わりだしてすぐ、

「私は支援者なの? 何なの?」

という葛藤が生まれました。というのも、センターの利用者さんに、

「今度、病気のスタッフが来るの? そんなの嫌」

と言われてしまったからです。さらには、

さんは資格を持っているから、俺たちとは違うんでしょ」

という声にも遭遇しました。

さて、どうしましょう。苦労して取った資格だから活かしたい! でも、自分が障害者である事実は変わらない。専門家になりたい自分と当事者である自分の板挟みに遭いました。この葛藤はこの後、およそ4年間続きます。

それで、なぜ私が「自分が障害者であること」を素直に肯定できるようになったかというと、それは、第1回にご紹介した「DPI日本会議」との出会いでした。まさに運命の出会いともいうべき、その中身(自分の障害を肯定できたきっかけの「後半」)は、次回に持ち越したいと思います。ではでは、また☆

ソーシャルワークタイムズ vol87 2015.9.13


『いち精神障害者、ふらりと見参(3)』

現在、私の所属している「DPI日本会議」(以下、DPI)は、障害者が「自分の人生の主役は自分である」という信念の下、障害のある人もない人も、誰もがいきいきと暮らせるインクルーシブな社会を目指して活動しています。

DPI事務局のみんなは、めっちゃアクティブ。車いすでガンガン街に出て、堂々と活動をしている姿は、いわゆる「支援・援助の対象」と見られがちな障害者像とはかなりかけ離れています。私は最初DPIに来たとき、正直目が点になりました。頸髄損傷で手足の不自由な人が、工夫を凝らして(手にペンをくくりつけ、キーボードを叩いて)パソコンで稿をスラスラ書いたり、視覚障害の人が点字でバリバリ仕事をしていたり、難病の人が勤務時間を工夫して活動をしていたり。

「こんな世界があるのね!」

という驚きが一番でした。

それでも、「私の病気はいつか治るから、私は障害者じゃない」という思いは拭えずにいました。

ある時、海外から精神障害の研修生がやってくることになり、私が研修の担当になりました。当時私は千葉県に住んでいたのですが、研修場所は、お隣の東京都は東京都でも、なんと八王子市でした。遠っ!

そこで出会った、車いすの女性Nさんに言われた一言が、自分の精神障害を肯定する、大きなきっかけでした。Nさんは私にこう言いました。

「あなたは、せっかく障害当事者なんだから、ピアカウンセリングをやりなさい」。

この響きは新鮮でした。この言葉には多くの意味が込められているような気がしました。「せっかく障害者」とはどういう意味なのだろう? 自分が障害を持ったことに、何か意味があるのだろうか? そんな問いかけが続きました。

実は、この研修がきっかけで、夫と出会いました。彼は精神障害者で、東京都八王子市のCIL(Center for Independent Living=自立生活センター)でピアカウンセラーとして働いています。

耳慣れない言葉がいくつか出てきたと思うので少し解説します。かつて「障害者を援助するのは医者、OT、PT、カウンセラーなどの専門家だけ」と考えられてきましたが、1972年、アメリカ・カリフォルニア州バークレーに、障害者自身が運営し、障害者にサービスを提供する「自立生活センター」が設立されました。Center for Independent Livingの頭文字をとって「CIL」と呼ばれています。エド・ロバーツ(この名前を聞いたことがある方もいると思います)がCILの創設の父と言われています。

ピアカウンセリングとは、セッションという手法を用いて「障害当事者のことを最も理解しているのは、障害者自身」という立場に立ち、自立生活の実現のサポートをすることです。と、さらっと書いてしまいましたが、非常に奥深い世界なのです。

私は、「せっかく障害者」なので、Nさんのもとでピアカウンセリングの修行をすることになりました。八王子まで足を運んで、ちょっと(かなり?)厳しい研修を重ねました。既述のダーリンも、研修の講師として入ってくれました。最初は、先生と生徒みたいな関係だったんですね。それが後に夫婦になるのですから、世の中わからんもんです。

研修を重ねていくと、ピアカウンセリングの発想、自立生活の考え方、当事者主体の理念など、目が覚めるような学びばかりで、目から鱗が落ちまくりでした。

 やがて、背伸びしない、ナチュラルな言葉で「私は精神障害者です」と言えるようになりました。何か大きな出来事があったというよりは、ピアカウンセリングや障害者運動との出会いが、自分を徐々に「ありのままの自分を愛する」自分に変えていったように思います。

と、何かいい話っぽくなってきたところで、今回はこの辺で。

ソーシャワークタイムズ vol88 2015.9.20

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名前:由佳(さぎはらゆか)
ライタープロフィール:
精神障害当事者。2004年、日本社会事業大学卒業。紆余曲折を経て2007年に社会福祉士&精神保健福祉士に合格。PSWとして福祉の現場に臨むも、アイデンティティの激しい揺らぎに数年間葛藤した結果、障害当事者として活動することを決意。現在は東京の隅っこで、同じく精神障害者のダーリンと仲良く暮らしています。
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