なぜ対人援助職に自己覚知が必要なのか?

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対人援助職につかれている、つきたいと思っている方でしたら必ず耳にしたことがあるだろう「自己覚知」という言葉。
この言葉自体に明確な定義は無く、簡単に言えば、「自己覚知」→「自分を知ること」→「職業的な自分をコントロールするために、自分の依って立つ価値観について知っておくこと」とでも表現しておけばおおかた間違いではないかと思います。

さて、では自分を知るためには・・・
自分がどんなときに感情が揺れ動かされたりするか。 自らの正義とはなにか。どんな事象を不条理だと感じるか。 自分がどんな価値観について受容でき、そして決して受容できなものは何か。 などなど。

そんな問いを内なる自分と対話し、答えを見つけながらすすめていくのが「自己覚知」のプロセスなんだと個人的には解釈しています。

【自己覚知は自分自身のパフォーマンスを最大限に発揮する状況を常につくりだすために必要】

自己覚知を語られるときによく言われる、自分がどんなことに怒ったり、悲しんだり、感情を揺れ動かされるのかなどということを「自分の理解の範疇に置いておくこと」により、あらかじめ自分の身体と心に生じるであろう負の変化を予測できるようになります。 その結果、自身に生じる負の変化に対する防衛反応、事前対処を取ることができ、外的な要因に可能な限り左右されずに、自分自身の中に余裕を生み、目の前にある事象に対し自分のエネルギーの多くを投入することが出来ることが可能になるのです。

つまりは、自分自身のパフォーマンスを最大限に発揮する状況を自分でつくりだすわけです。メジャーリーグベースボールで活躍しているイチロー選手とか、まぁ、いろんなところでいろんな人が言っていることですね。

つまりは 自分自身のパフォーマンスをいつどんなときも最大限に発揮する状況を常につくりだせる心と体の準備をする。(よくいうところのモチベーションの維持も含まれますでしょうか)
そのためには あらかじめ自分の身体と心に生じるであろう負の変化を予測し、防衛反応、事前対処を取る必要がある(負の要因から受けるダメージを最小化する) 防衛反応、事前対処を取るためには 自分がどんなことに怒ったり、悲しんだり、感情を揺れ動かされるのかなどという価値観を「自分の理解の範疇に置いておくこと」が必要。(つまりは、これがよくいう自己覚知の部分) なので、自己覚知って言葉が対人援助職の専門用語みたいに使われているだけであって、やってることは多くの業界で活躍している方たちが自分自身のパフォーマンスを最大限に発揮する状況を常につくりだすためにやっていることのひとつだと思うわけです。

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上記は自身の負の変化について述べたものですが、もちろんプラスの変化が生じる要素(自分にとっての心地よいモチベーションを挙げてくれる人物事たち)も自己覚知には必要だとは思いますが、楽しく心地よい気づきを積み重ねていく中だけでは自己覚知のプロセスは成熟はしていかないと思うのです。

「自己覚知」の第一歩は、自分の中にわき上がるドロドロとした感情に向き合い、胃の底が焼けるような感覚を感じるところからはじまるのだと思っています。
他人のためと言いながら、自分のために悩み、自分の利を優先させようとするときに、そんな自分に気づき、自分を恥じ、苦しむ。ときに、その気付きから逃げないで、恥ずべき自分と向き合う、それが自己覚知の最大のチャンスであり、 「自分を恥じ、苦しむ」ということは、つまりは自分の中で相反する価値観が衝突してるってことなんだと思います。ジレンマを感じ、消化できないドロドロした感情が自分を侵食していくあのいやな感覚って誰でも一度は経験したことがあることだと思います。

本エントリを読まれている学生さんに一言お伝えするとしたら 『せめて学生の時に「対人援助職をなぜ志すのか」という問いに対する、対外的なものでない、内なる理由を考え抜いておくべき。』 とお伝えしたいです。

なぜなら、上記の問いを自身の中で考え抜いた、その答えではなくプロセスこそが、自己覚知の大きな第一歩になると思うからです。そして、考え抜いたそのプロセスは、現場に出てからの自分を支えてくれる屋台骨にきっとなると思います。

上記で述べた理由から、私は自己覚知のヒントやきっかけを最初から外に求めるということはナンセンスだと思っています。そしてまた対人援助職の専売特許のように語るのもおかしなことだと思っています。

誰かに教えてもらう「自己覚知」のプロセスには孤独がありません。 ときに誰かの手を借りることがあったとしても、孤独を経ない自己覚知はあり得ないと個人的には思います。

「誰かを救いたい」っていうコインの裏は「自分が救われたい」っていうデザインでした、っていうオチもあるのかもしれません。 自己覚知というのは、「孤独の中でジレンマを抱える自分と向き合い逃げないこと」というとてもつらくて苦しい道のりなのだと思います。

代表理事 横山